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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第160回 金木犀のかおる夜 2017/10
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 あたりに金木犀のかおり漂う土曜日の夜です。
 マンションの一室で男女が向き合って食卓についています。
 女性のほうの常盤多美さん(25歳)が、顔を強張らせ自身の手元を見つめながら心の中でつぶやきます。
<二人ともそれを望んでいなくても別れてしまったカップルを私は知っている。とてもささいなことが別れのきっかけだったことも。私の気持ちが変わることは絶対にないという自信はあるけど、さっきの私の行動が誠也さんの気持ちが離れるきっかけとなる可能性がゼロだとは言えない……>
 そんな常盤さんを恋人の正岡誠さん(27歳)は穏やかな表情で見つめています。
 さきほど、多美さんは突如ふくれあがった怒りを押さえられず、かたわらに置いていた料理本を壁に投げつけてしまったのです。彼女にとっては人生初といっても大げさではない乱暴な行動でした。
 怒りのきっかけとなったのは、誠さんのひと言でした。
 多美さんが作った夕食の鯛のムニエルの話になり、誠さんは、基本的に魚は好きではないからさ、と述べたあと、
「そのこと、わかってくれていると思ってた」
とぽつりと言ったのです。
 すると多美さんの顔から笑みがなくなり、みるみるうちに思いつめた表情へと変化し、なにやらぶつぶつとつぶやいたのち、
「なんでもわかってくれると思わないで! はっきり言ってくれなきゃわかんないんだから」
と声をはりあげたあと、本を壁にぶつけたのです。
 今夜は、長い出張から戻った誠さんが久しぶりに多美さんの部屋に泊まりに来ました。多美さんはいそいそと買い出しにでかけ、夕方から料理をがんばりました。仕事のことは忘れて、週末を楽しもうと決めてです。
 実はこのところ、看護師の多美さんは仕事について悩んでいました。新卒で訪問看護ステーションに就職して四年目。病院勤務の経験がなくても、逆にそれが訪問看護師としてプラスになる面もあるはず、と考えて仕事を続けてきました。しかし、急性期病院で勤務していた同い年のナースが最近彼女の同僚となり、自信を失い気味です。
 さらに昨日、長らく担当している永野英輔さん(87歳)の訪問の際、どっと自信をなくすできごとが起きたのでした。
 永野さんは訪問看護師の多美さんが大のお気に入りです。二階の自室のベッドで療養中の永野さんは、以前、となりの二階家の屋根の上に男が登り、屋根のてっぺんで弁当を食べていたのを見た、と言い出し、誰もそれを信じようとせず、家族は認知症のきざしではないかと疑ったのでした。その隣家は、一人暮らしの高齢の男性が三年前に亡くなってしまい空き家になっており、誰かが登るはずなどないと考えたのです。
 しかし永野さんはほんとうだと言い張り、みなが信じてくれないことが相当にくやしそうでした。
 多美さんは、彼が思い違いをしたり噓を言っているとは思えず、ほんとうのこととして永野さんの話をくわしく聞き、その隣家を見に行ってみたら、梯子が庭に置いてあるのがわかり、永野さんの話は事実だろうとみなに伝えました。その数日後、亡くなった隣家の老人の遠い親戚で屋根職人をしているという男性が、実際に様子を見に来て、屋根で弁当を食べていたことを近所の人から永野家に伝わったのでした。
 昨日の早朝から永野さんは痛みが生じたらしく、午前中に訪問した多美さんは痛みの詳細を知るために、いくつか彼に尋ねました。痛みの部位、痛みの広がりとデルマトームとの関係、痛みの性状、痛みのパターン、を確認し、主治医に有用な報告をするために。
 しかし永野さんは、痛いとこたえるだけ。多美さんがしばし困惑していると、
「それだけ言えばいいだろ。あとは言わなくてもわかるだろ」
と声を荒げたのです。
 永野さんの妻が多美さんに「ごめんね、気にしないでね、あなたは言わなくてもなんでもわかってくれると思ってるんだから、甘えちゃっててごめんね」と耳打ちしました。
 すると永野さんは、妻に「なに変なこと言ってるんだ!」、そして多美さんに「帰れ!」と怒鳴りました。
 そこへやってきた主治医が、身体にふれながら痛みの問診をはじめると、永野さんはそれに素直に答えたのです。
 このできごとについて拠点に戻り上司に報告をしていると、急性期病院から移ってきた例の同僚が、それをそばで聞いていて、
「その利用者さんとの距離の取り方を検討したほうがいいかもですね」
とさらっと言ったのでした。
 その通りかもしれない、と思った多美さんは何も言葉を返せませんでした。
「多美ちゃん」
 誠さんの優しい声です。
「………」
 多美さんは何と言っていいかわからず、うつむいたまま誠さんをちらりとみます。
「多美ちゃん、さっき、はじめて僕に八つ当たったね」
「え?」
「たぶん、仕事で落ち込むことでもあったんだろうなって、そのことは書いてなくても、なんとなくメールで感じてたから。多美ちゃんはポンポン言えないタイプだから、状況によってはストレスを抱え込んでしまうこともあるだろうと思う。そんなときは、ぼくに八つ当たりするといいんだ。実はぼくもあまり誰かに八つ当たりしたりできない性質でしょ。だから、今日はお互いに八つ当たりしあった八つ当たり記念日だね」
「は? 誠さんは、八つ当たりなんかしてないでしょ」
 多美さんは顔をあげて目を丸くします。
「いや、多美ちゃんの怒りのきっかけを作ったと思われる、<わかってくれてると思ってた>っていうセリフ、あれ、八つ当たり。ほんとうはぜんぜんそんな思いはないんだけど、まっ、僕も出張先でいろいろあって、心にもないことを言ってみたくなったんだ」
「え? あれ、八つ当たりなの?」
「そうだよ」
「すごくわかりにくい、地味な八つ当たり。あれで八つ当たり? どんだけおとなしい人なのよ」
「多美ちゃんもそうとう大人しい人だよ。本投げたくらいであんなに深刻に後悔した顔になっちゃって」
 二人はしばし顔を見合わせ、その後、ぷっと吹きだして笑いました。
 二人はこの夜のおそくに近所に散歩に出て、将来家族になる約束をしたそうです。

 永野さんとの距離の取り方については、上司の助言があり、さしあたり現状のままでいくことになったとのことです。永野さんは、声を荒げて悪かったと多美さんに謝ったそうです。

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